では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。
賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。
さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。
もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。
あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
主はいずれの国民をも、 このようにはあしらわれなかった。 彼らは主のもろもろのおきてを知らない。 主をほめたたえよ。
あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。